橘民義オフィシャルサイトをリニューアル公開いたしました。
今後ともよろしくお願いいたします。
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息子の同級生3人を引き取ったシングルマザー
(福島県双葉郡浪江町→福島市)
◇衝撃的な出来事の連続だった避難生活◇
地震・津波ともに自宅はほとんど無事だったという福島県浪江町のTさん(30代女性)。Tさんは、震災の翌日から、息子を連れて原発の放射能から逃げ続け、避難所を点々としていました。
逃げる途中、Tさんは衝撃的な光景をたくさん目の当たりにしたといいます。警戒区域になった浪江町の病院では、患者移送のために来た自衛隊が、患者全員の移送は無理だとあきらめ、病人たちを見捨てて行ってしまったこともあったといいます。避難所で朝起きたら、近くで寝ていたおばあさんが死んでいたこともあったといいます。同じ避難所では、「すぐに戻れると思って寝たきりの父を警戒区域においてきた」と泣き叫ぶ女性に出会い、ずっと寄り添ってあげたこともあったそうです。
◇震災ホームステイで福島の家へ ~息子の同級生3人を引き取っての新生活~◇
3月の終わり、Tさん親子が横浜の親戚の家にたどり着いた頃、浪江町にあったTさんの息子の高校が、数十キロ離れた内陸の二本松市で5月に再開されることを知ります。近くに家を見つけて通わせてあげたいと思いましたが、高校の近くのアパートなどはすでに全く空きがない状況でした。
学校の近くにある避難所の体育館に戻るしかないと思っていたとき、Tさんは震災ホームステイを知り、申し込みました。すると幸いにも、学校に通える福島市内の一戸建てを無償で借りられることになったのです。家を提供してくれたのはSさん。元々、Sさんの両親が住んでいた家で、2,3年前にご両親が亡くなり、空き家になっていたものでした。
家が決まり、担任の先生に喜んで連絡をしたTさん。その時、ある事実を知ります。当時、避難先が遠くて学校に戻れない生徒がたくさんいたのです。それを知ったTさんは、同級生たちを預かろうと決意をします。Tさんの元にやってきた同級生は3人。そのときから、息子を入れて高校生4人を相手に、いわば「学生寮のお母さん」のような生活が始まりました。朝4時起きで弁当を作り、息子たちを6時過ぎの電車に乗せる生活が始まったのです。
◇「補償」をもらえたが故の悩み◇
その頃、Tさんは一つ悩みを抱え始めていました。新しく生活を始めた福島市は、原発に近いものの補償対象地域にはなっていません。Tさんの地域の人に対する東電からの補償内容が発表されると、近所の人たちの心情が気がかりで、どうしても遠慮がちな生活をせざるを得なくなったと言います。
出身地域は、避難で乗ってきた車のナンバーでわかります。同じ地域から逃げてきた知人の中には、嫌がらせで車を傷つけられたり、子供が学校でいじめられた人もいたと言います。
◇1年後の現在 ~歩き始めた息子、定住先に悩むTさん~◇
預かっていた息子の同級生は、その後、家族が近くの仮設住宅や借り上げ住宅などに入居できたのをきっかけに、家族の元に戻りました。Tさんの息子はこの春高校を卒業し、千葉のイタリアンレストランで調理師を目指して歩き始めることになりました。
しかし、子供たちが歩き始める中、Tさんは定住先を悩んでいました。雇用保険の支払いが3月末で終わるので、それまでに落ち着いて住む街をきめ、仕事を探さないといけないと思ってはいます。しかし、故郷に戻れるかどうかが分からない今、どこで再出発をしたらいいのか決められない、とTさんは言います。
(情報は2012年2月末現在のものです)
故郷の復興に人生を捧げる ~街の除染に向けて動き出した元学習塾経営者~
(福島県双葉郡富岡町→千葉県→福島市)
◇83歳の両親を連れた避難◇
福島県双葉郡富岡町で学習塾を経営していたWさん(60代男性)。Wさんは地震の直後、83歳の両親を連れて高台の避難所に避難をしました。家は津波からは免れましたが、翌朝、避難所に「原発から離れるように」と指示が出てさらに遠くへ避難を始めます。警戒区域になった家にはそれ以来戻れなくなったといいます。
避難所を転々とするなか、Wさんが一番気がかりだったのが、母親のことでした。母親には病気があり、2日に1回病院で透析をしなければ、命にかかわる状態でした。それまで通っていた病院は警戒区域で立ち入り禁止となり、ほかに受け入れてくれる病院を必死に探しましたが、ベッド数が足りないと断られ続けました。福島県内ではもう無理、そう思ったWさんは、妻の実家のある千葉県で病院を見つけ、3月13日、移動をします。そして翌日、母親はなんとか透析をしてもらうことができました。
◇賑やかだった20人の共同生活◇
それからWさんたちは、妻の実家での生活を始めます。実はWさんたちは、福島の避難所で落ち合った長男や長女の家族、その友達などで助け合って生きていこうと決めており、13人で一緒に千葉に移動をしていました。妻の実家は快く迎えてくれたものの、元々7人いた家族に13人が加わり、20人の大所帯の生活が始まることになりました。一緒に避難してきた中には、今年幼稚園を卒園するはずだった子もいました。その子のために、20人で手作りの卒園式をやったりとみんなで賑やかな毎日でした。
しかし生活面は大変でした。洗面所やトイレは1か所。20人ではとても足りませんでした。妻の実家には、もともと中学生と高校生の子供が住んでおり、普段と変わらず学校に通っていました。朝、洗面所の順番を待っていると学校に遅れてしまいます。Wさんは、「長くお世話にはなれない」と思ったといいます。
◇病気の母が繋いだ「縁」◇
Wさんは、母が病院に通える範囲で早く住む場所を見つけなくては…と思い、URの借り上げなどを必死に探したと言います。しかし借り上げになっているのは基本的には空き家。古い建物が多く、エレベーターがなかったり、廊下の幅が狭かったりと、母が車いすで移動できる家はなかなか見つかりませんでした。
困り果てていた時にWさんが知ったのが「震災ホームステイ」でした。連絡をすると、すぐに千葉県内の一戸建ての家が見つかり、5月1日、入居することができたのです。車を玄関前に横付けでき、母が移動をするのに非常に便利な家でした。実はこの家が、高齢の母に都合がよくできていたのは理由がありました。提供された家には元々、高齢の女性が1人で住んでいたのです。ちょうど1カ月ほど前に施設に入ったため、空いたところを娘さんが提供したものでした。家には、高齢の女性が使っていたという身の回りの物がそのまま残っていました。娘さんは、それらをそのまま使っていいと言ってくれたといいます。
娘さんの厚意に感動したWさん。このご縁は、病気の自分の母親が繋いでくれたご縁だったのではないかと思ったといいます。地震後、Wさんは「母を何とかしなければ」と思って行動をしてきました。その結果、原発が爆発した時には、Wさんたちはすでに福島から離れていました。千葉の妻の実家では楽しい一時を送ることができました。そして、震災ホームステイの大家さんとの出会いもありました。実はWさんの母は、病気を抱えていただけでなく、地震後、避難所を転々とするたびに、痴呆が進みコミュニケーションをとるのが難しくなっていました。しかしWさんは言います。「母は実はボケているのではなく、子どもである僕たちを守るために、すべて計算してやってくれたんじゃないか、と不思議に感じることがある」。
◇1年後の現在 故郷の復興に人生を捧げる◇
現在Wさんは、父親と一緒に福島市に仮設住宅を借り、月に10日位そこで生活を始めています。理由は、残りの人生を故郷の復興にささげる決意をしたからだといいます。故郷の復興のために、できることから始めたい。まずは自分たち住民の手で除染作業ができないか、役所と調整を進めているそうです。
(情報は2012年3月4日現在のものです)
赤ちゃん2人を守る決意をした、ある母の孤独な戦い
(福島県郡山市→栃木県→群馬県→新潟県)
◇赤ちゃん2人を守る決意をした母◇
福島県郡山市に住むHさん(40代、女性)。生後5か月と2歳の2人の赤ちゃんがいたHさんは、放射能から子供たちを守ろうと、地震から4日後、子供たちを車に乗せて家を出ました。夫は仕事の都合で家を離れることができませんでした。子供たちを守れるのは自分しかいないと、母子だけの避難を決めたのです。
Hさんが最初に向かったのは、神奈川県のお姉さんの家でした。快く受け入れてくれたお姉さん。しかし、当時、お姉さんの家は計画停電で度々電気が止まり、お姉さんも自分の赤ちゃんの世話で大変な毎日を送っていました。日に日に疲れた顔になっていくお姉さんを見て、Hさんは「申し訳なくてここにはいられない」と思ったそうです。しかし、警戒区域外に住むHさんたちは当時、自治体に相談をしても、入居資格がないと言われてしまったそうです。Hさんがテレビで震災ホームステイを知ったのはその頃でした。
◇人気の無い別荘地での孤独との戦い◇
震災ホームステイに連絡をしたHさんは、幸いにもすぐに、福島との県境に近い、栃木県のある別荘を紹介してもらいます。Hさんは、すがるような思いで4月23日、その家に向かいました。迎えてくれたのは、普段は千葉県に住んでいる家主のYさんご夫妻でし た。ご夫妻は、家を案内した後、食事をふるまい、一晩一緒に過ごして Hさんを温かくもてなしてくれたといいます。Hさんは、世の中にこんないい人がいるのかと感動し「落ち着ける場所が見つかった」と思ったといいます。しかし、大変なのはそれからでした。
翌日、家主さんご夫婦が帰った後、突如静けさが襲いました。この時期の別荘地は人の気配が全くなく、時折聞こえるのは、被災地に向かうヘリコプターの音だけでした。そして、ひっきりなしに起こる余震…。スーパーに行くのでさえ、車で40-50分かかります。人ひとりいないこの場所で、自分が2人の赤ちゃんを守って生きていかなければならない…。そう思うと、不安でたまらなくなったと言います。Hさんは、近くの保育園などにも連絡をし、上の子だけでも受け入れてもらえないか、助けてもらえないかとお願いをしたそうです。しかしそれもかなわなかったと言います。「子どもを守るため」と自分に言い聞かせ、必死に孤独と戦ったHさん。しかし1週間後、そっと家から姿を消したのです。
Hさんはおよそ10日後、再び震災ホームステイに「住む場所をもう一度探してほしい」と連絡をしてきました。そして、入居者も多く管理人もいる東京都のCさんに提供いただいた群馬県のマンションに落ち着いたのです。
◇1年後の現在 ようやく見つけた「人との絆」◇
Hさんは現在、新潟県中部の街の借り上げ住宅に住んでいます。Hさんが住み始めた地域は、福島県と行き来がしやすいため、母子だけで避難をしてきた被災者が多く集まっていました。NPOが作ってくれた被災者たちの交流所でHさんは同じ境遇の母子避難者たちに出会い、毎日のように連絡を取り合い、支え合って生活をしているといいます。Hさんはいま、栃木の別荘地での生活を振り返ってこう話します。「人間は人とのつながりを感じていないと生きていけない、社会的な生き物なのだ、と痛感した」。
◇「地域住民の環に入れてほしい」歩き出した被災者たち◇
震災後1年が経とうとする今、Hさんたちママ友仲間は、次への一歩を踏み出そうとしていました。
Hさんたちは被災者の仲間と助け合って暮らしていますが、これまで、地元住民との交流はなかなか持てなかったといいます。それは、「これまで被災者は支援を受けている立場として、謙虚にひっそりと生きてきた」(Hさん)からでした。
そうしたなか、被災者のママ友たちはこの3月、地元の人が集まるカフェのギャラリーで自分たちが作った作品の展示会を開きました。「私たちもこの地域にいる。仲間に入れてほしい」そうしたメッセージが込められていました。さらに福祉施設や道路の掃除などをかって出るなど、地域に貢献できる方法について模索を始めているそうです。
(情報は2012年3月6日現在のものです)
東京で遥かなる福島の赤ちゃんを!~ある被災助産師の物語~
(福島県南相馬市→東京都)
◇大事に育てた牛の柵に鍵をかけての避難◇
和牛の繁殖業を営んでいたWさん一家。Wさんの家は、警戒区域になり、2度目に原発が爆発した3月14日、車に詰めるだけ荷物を積み、避難をしました。それまで大事に育てていた牛は、およそ40頭。牛たちには、餌をあげられるだけあげ、周りの迷惑にならないよう、泣く泣く柵に鍵をかけて出てきたといいます。
一度は東京で賃貸住宅を借りたWさん。しかし収入が途絶えた中で、家賃を払い続けることができるのかどうか、不安でいっぱいでした。そうしたとき、震災ホームステイを知り、「すがる思い」で申し込みをしたといいます。
◇慣れない東京での新生活に悩む夫◇
Wさんに家を提供したのはKさん。転勤で住まなくなった家を無償で提供したといいます。Wさん夫妻は、Kさんに感謝をしつつ、東京で新生活を始める決意をします。
それから、Wさん(40代女性)の夫の仕事探しが始まりました。Wさんの夫は和牛の繁殖業。東京で必死に仕事を探しましたが、畜産業しかしたことがない夫が仕事を見つけるのは、とても難しい状況でした。福島にいた時は、夫の仕事場にある事務所には、毎日近所の人が次々に顔を出していました。しかし、東京で自分の居場所をなかなか見つけられなかった夫は、自分を失ってしまったかのようだったと言います。
そうしたなか、夫は5月、南相馬市の警戒区域外にいるいとこから「少しの間仕事を手伝ってほしい」と声をかけてもらい、故郷に戻りました。
◇東京で遥かなる福島の赤ちゃんを!~ある被災助産師の物語~◇
一方、助産師だったWさんは、助産師会の助けもあり、雇ってくれる東京の助産所を見つけました。Wさんに紹介をされた助産所は、ちょうどその頃、「安心できる街で赤ちゃんを産みたい」と願う福島の妊婦たちを受け入れている施設でした。不思議なご縁を感じながら働き始めたWさん。Wさんの元には、福島からたびたび妊婦が出産にやってきます。Wさんは故郷の復興を願いながら、福島の妊婦の赤ちゃんをとりあげています。そして母と子が無事に育っていくのを世話をしながら見届けているのです。
◇1年後の現在 休職期間が終わりを迎え決断のとき◇
実は、Wさんが元々助産師として務めていた福島の病院は、震災後1年間、Wさんを休職扱いにしてくれています。その休職期限も、今年3月で終わりです。家は警戒区域で戻れませんが、今、職場に復帰しないと職を失うことになります。Wさんは悩んだ末、高校2年生の息子を連れて故郷に戻る決意をしました。
しかし、今年に入りすぐに申し込んだ仮設住宅は、空きがないのか、まだ返事はありません。3月いっぱいと言われている借り上げ住宅の申し込みを、駆け込みで行いましたが、その返事もまだ来ていません。帰れる場所がまだ見つからない中、休職終了の期限が間もなく迫ろうとしています。
(情報は2012年2月末現在のものです)
エピソード3 インターネットの向こうに大勢の「サンタクロース」が現れた
福島県浪江町→埼玉県
◇津波ですべてを失った一家◇
津波ですべてを失った島県浪江町のYさん(40代女性)。Yさんが助かったのは、たまたま息子が外にいたからだったと言います。地震が起きた時、中学の卒業式を終えたばかりだった息子は、友達とご飯を食べに行っていました。Yさんは、家にいた夫に息子を迎えに行こうと言われ、ペットの犬を連れて車で走り出しました。しばらく走ったとき、道ばたに立っていた役場の人から誘導を受け、気づいたら高台に着いていたそうです。Yさんの家が流されたのは、ちょうどその頃だったと後から知りました。思いもかけない形で命を救われたのです。
その後、幸いにも家族全員の無事を確認できたYさんは、一家で親戚の家を転々としながら、落ち着ける場所を探し続けていました。URの借り上げ住宅なども探しましたが、ペットの犬を連れて入居をできる部屋は見つからなかったと言います。そうしたなか、震災ホームステイのウェブサイトを知り、ようやく落ち着ける場所を見つけたのです。
◇インターネットの向こうに大勢の「サンタクロース」が現れた◇
震災ホームステイでYさんに家を提供したのは、法律関係の仕事をしているKさん夫妻でした。Kさん夫妻は仕事の都合で引っ越しが決まり、賃貸に出す予定だった埼玉県のマンションの一室を無償で提供してくれたのです。
津波ですべてを失ったYさんは、住む家以外にも、インターネットを通じて、見ず知らずの人たちからたくさんの贈り物をもらったといいます。「生活用品がなくて困っている」と支援サイトに書き込みをすると、20数人から提供したいと連絡があり、鍋、食器、衣類、食べ物、裁縫用具、体温計、扇風機など、ありとあらゆるものを送ってもらえたと言います。そうした人たち何人もといまでもやりとりが続いていて、中には「寒くないですか」と手編みのマフラーを送ってくれた人もいました。インターネットが繋いでくれた、見知らぬ人々からの贈り物と気持ちに支えられ、Yさんは何とか新しい生活を始めることができたのです。
そしてYさんにとって何よりも、家を提供してくれたKさん夫妻との出会いは「奇跡」だったと言います。家主のKさん夫妻は、Yさんに事あるごとに連絡をくれ、相談相手になってくれたといいます。それが、Yさんにとっては大きな精神的支えになりました。
◇気になる家主さんの心の内◇
家主さんのご厚意に甘えることになったYさんですが、家主さんのことがずっと気になっていたといいます。「家主さんもはじめは軽い気持ちで貸してくれたのかもしれない。でも、この災害はそう簡単には終わらない。家主さんはそれに付き添う気持ちがあるのか、後悔していないか、とても気になっている。どこまでご厚意に甘えていいのか毎日悩んでいる」とYさんは言います。
そうした中、8月、Yさんは少しでも家主さんの負担を減らせないかと思い、埼玉県に借り上げ住宅として認定をしてもらないかと働きかけました。それが実を結び、家主さんには、その後、埼玉県から「借り上げ住宅」として、わずかですが、家賃が支払われるようになりました。
◇1年後の現在 「浪江町の復興はないのでは…」定住地を悩む毎日◇
Yさんは、「福島県浪江町の復興はもうありえないのでは…」と思い始めていると言います。「除染をしても、住めるのは何十年も先になるかもしれない。ならば除染はしなくていいので、「もう住めません」とはっきりと言って土地を買い上げてほしい。そうしてくれないと、戻れるのか戻れないのか、自宅をどうしたらいいのか、悩みながら生きていく毎日が続いてしまう」そうYさんは訴えます。
(情報は2012年2月現在のものです)
震災の「おくりびと」~震災の犠牲者を無償で化粧し続けた納棺師~
(福島県南相馬市→群馬県)
◇震災の「おくりびと」◇
福島県南相馬市で納棺師をしていたTさん(40代男性)。Tさんの葬儀場に、被災者の遺体が運ばれ始めたのは、地震翌日の夕方でした。津波や地震の被災者の遺体はこれまで見たことがないほど傷んでいるものが多くありました。そうした遺体にショックを受けながらも、Tさんは、普段通り、運ばれてくる遺体に化粧をし続けていました。遺族から化粧の費用をとるつもりはなく、完全なボランティアでした。こういう時だからこそ、遺体を元気だったころの姿に少しでも戻してあげて、遺族の気持ちを安らかにしてあげられないか…そうした思いでいっぱいだったといいます。
ある日、Tさんの元に、知人の娘さんの遺体が運ばれてきました。まだ18歳でした。美しいはずの年ごろの娘さんですが、顔は黒ずみ、皮膚もただれた、本当に可愛そうな姿になっていました。Tさんは、知人のために、娘さんの顔にドーランを何度も重ねて塗り続けたそうです。
たくさんの被災者の遺体と向き合ったTさん。今ではこう思うそうです。「人の魂は、その人の体の中ではなく、他人の心の中にあるのではないか。震災で亡くなった人たちの魂も、人の記憶に残っていれば生き続けることができる。いつまでも忘れずにいてあげたい。」
数日後、遺体に化粧をする仕事はひと段落。Tさんは仕事を失いました。
◇7か月の赤ちゃんを放射能から守りたい◇
実はTさんには、震災後、家族の心配が浮上していました。Tさんには、震災時、生後7カ月の赤ちゃんがいました。南相馬市にある自宅では、赤ちゃんへの放射能の影響が心配で、どこか、遠くに避難できる場所がないかと考えていました。
しかし、自宅は避難準備区域だったため、政府からの補償はなく、避難は自費になってしまいます。しかも自宅は建てたばかりの1戸建て。ローンの支払いが続いていました。仕事がない中、家賃の二重払いはとてもできませんでした。Tさんが震災ホームステイを知ったのはその頃でした。
◇見知らぬ土地で孤立する新米ママ◇
震災ホームステイを通じて、Tさんに家を提供してくれたのは東京に住む医師でした。両親がなくなり空家になっていた前橋市の実家を貸してくれたのです。無償で提供してくれた家主さんに感謝でいっぱいだったTさん。しかしそれから、見ず知らずの土地での新生活が始まったのです。
Tさん夫妻は、まずは知り合いを作らなければと、すぐに近所にあいさつ回りをし、地域のお祭りに参加したり、地域の掃除に参加したりと、精力的に繰り出しました。しかし、「被災者」である自分たちに周りの人も遠慮がちで、心の底から相談できる人を見つけるのは苦労したといいます。7カ月の赤ちゃんを抱えた奥さんは、初めての子育てに戸惑うことがいっぱいでしたが、頼れる人もいず、毎晩「故郷に帰りたい」と泣いていました。でも子供への万が一の影響を考えると、戻るわけにもいかない。葛藤が続いていました。
◇1年後の現在 ~間もなく再開される「戻れない我が家」のローン支払い~◇
現在もTさんは、提供してもらった群馬の家に住んでいます。Tさんは、ハローワークで仕事も見つけ、新しい街で何とか再出発をはじめました。
そんなTさんの現在の悩みは、南相馬市に残してきた、建てたばかりの家を一体どうしたらいいのかということです。家のローンは、労働金庫のはからいで1年間は支払いを猶予してもらえましたが、それも間もなく終わり、再び払わないといけない状況になります。戻ろうにも戻れない家のローンです。Tさんは、「家を完全に失っていたら、新しい土地でやっていこうと気持ちの整理がつき、よほどすっきりすると思うこともある」と話します。今のTさんの願いは、叶わないとは思いながらも、家を、東京電力なりに誰かに買い取ってほしいということです。
(情報は2012年2月末現在のものです)
「10歳の被災少女を支えた震災ホームステイの家主」
(福島県双葉郡→埼玉県)
◇居場所がなかった犬と一緒の避難生活◇
福島県双葉郡に住んでいたWさん(40代、女性)。Wさんは、夫と両親、そして妹家族の7人で、避難所の駐車場で車中生活を続けていました。
車中生活をせざるを得なかったのは理由がありました。Wさん一家は、飼っていた犬をどうしても置きぼりにできず、一緒に避難をしていました。避難所にはたどり着いたものの、周りの人たちのことを考えると建物の中には入れなかったと言います。寒い中、犬を外につないでおけない、避難所の少ない食料を犬にもあげているのではと誤解されたくない…。色々な思いが頭をめぐっていました。
Wさん一家の最大の心配は、一緒に避難をしていた妹の下の娘のことでした。妹の娘は当時10歳。地震、そして放射能と恐怖体験が重なり、精神的に参っていました。その姪を家族でなんとか元気づけながら避難を続けていました。
◇10歳の被災少女を支えた震災ホームステイの家主◇
家を出てからおよそ3週間後、Wさんは、放射能の恐怖から逃れ、一度落ち着ける場所がほしいと、埼玉県で賃貸住宅を借ります。しかし、夫の収入が途絶えたなか、とても家賃を払い続けられる状況ではありませんでした。Wさんが震災ホームステイを知ったのは、その頃でした。
Wさん一家は、「震災ホームステイ」を通じて、4月8日、埼玉県内の一戸建てに入居をします。この家主さんとの出会いがWさん一家にとって希望の光となったそうです。
家を貸したのはSさん。息子夫婦のためにと思って自宅の隣に購入した一戸建てを提供してくれたのです。Sさんは、生活用品も、食べ物も着るものもすべてそろえ、まるで親戚のようにWさん一家を迎えました。さらに、Wさん一家を精神的に支えていこうと、食事会をしてくれたり、Wさんの両親をグランドゴルフに誘ったり、さらには近所の人を紹介して地域の環に招き入れてくれたりしたのです。こうしてWさん一家は地域の人に支えられながら、少しずつ落ち着いた生活を始めることができました。
そして、Wさん一家にとって、とてもありがたかったのが、家主のSさんが、妹の子供を元気づけようと色々と気遣いをしてくれたことでした。Sさんは市内にいる自分の孫を呼んで一緒に遊ばせてくれたり、お祭りに連れ出してくれたりしたのです。その後、妹の子供は、少しずつ元気になり、新しい街で学校にも通えるようになっていきました。
◇1年後の現在 ~なかなか見通しの立たない夫の事業再開~◇
去年11月、Wさん一家は埼玉県の借り上げ住宅に入居し、現在もそこで暮らしています。Wさん一家にとって、いま最大の悩みは夫の仕事のことです。
Wさんの夫は、福島県内でメーカーの代理店を営んでいて、従業員も数名いました。警戒区域になっている元の場所に戻り事業を再開する道はいまのところ開けていませんが、従業員を抱えているため、彼らが次の仕事を見つけられるまでは、店をたたんで自分だけ再就職をするわけにもいきません。
色々と悩んだ末、福島県内でも放射線量の低い、いわき市などで再開できないかと、現在、場所探しなどを始めています。しかし、いわき市はいま、同じように福島に戻りたいと考える人で溢れ、住む場所を見つけるだけでも難しい状況になっています。なんとか戻る場所を作ってほしい、そして事業再開の見通しが立つまで雇用保険を存続してほしい、切実な願いを抱きながら、政府の動向を見守っています。
(情報は2012年2月末現在のものです)
東日本大震災からまもなく1年。
震災ホームステイでは、このたび、「震災ホームステイ」で遠くに避難した家族たちの1年後の姿を発信していくことにしました。
彼らの1年後の姿を通して、被災者を支えた日本人の優しさと、まだまだ終息していない東日本大震災の現状をお伝えできればと思っています。
「震災ホームステイ」は、去年の東日本大震災直後に立ちあがったサイトで、津波や原発で家を失い、避難所、ホテル、親せきの家など、寝る場所を探して転々としていた被災者たちと、無償で住まいを提供したいという市民をマッチングし、多くのメディアでも取り上げていただきました。ここでマッチングされて新しい生活を始めた被災者は、190組591人にものぼります。
1年前、「震災ホームステイ」に申請をしてきた被災者たちは、様々な「事情」を抱えていました。
ペットを見捨てられないなどの理由で、避難所に入れなかった家族。
車いすの母が一緒に住める自治体の借り上げ住宅が見つからなかったという家族。
シングルマザーの娘を心配して両親が同居を希望し、人数が多くて、親せきの家に長居できなかったという家族。
放射能を逃れて遠くへ避難したいが、自主避難区域で補償が出ず、家のローンを抱えたまま、2重に家賃は払えないという家族…。
彼らは「震災ホームステイ」を通じ、市民が提供した温かい「家」に、ようやく自分たちの居場所を見つけたのです。
「震災ホームステイ」で住む場所の提供を受けて生活を始めた被災者には、住む場所だけでなく、住居提供者との心あたたまる「絆」も待っていました。
見知らぬ土地での一文無しからの生活だった被災者を親せきのように親身に世話をする住居提供者。
彼らは、被災者たちに知人を紹介し、地域のコミュニティに招き入れていったのです。
そうした人の温かさで、被災者たちは少しずつ落ち着いた生活を送るようになりました。
震災からまもなく1年。
「原発」に近い地域に住んでいた人たちは、新しい街で生活を立て直そうと頑張っていますが、我が家に帰れるか帰れないかがわからない状況で、なかなか腰を据えて再出発ができずにいます。
現在、震災ホームステイの活動そのものは一定の役目を終えて休止状態ではありますが、私たちは、日本人の温かさと、まだまだ終息していない東日本大震災の現状を知っていただくのが唯一できることだと考え、今回の発信を始めることにしました。
本日より3.11に向けて1日1回のペースで、心温まるエピソードをご紹介していく予定です。
よろしくお願いいたします。
毎日1つづつエピソードを掲載しています。
それでは、さっそく、一つ目のエピソードをご紹介させていただきます。
福島県双葉町から埼玉県へ避難されたWさんの体験談です。10歳の娘さんを抱え、不安な中、住宅を提供いただいたSさんと周りの方々に支えられて埼玉県で新生活を再スタート…。
「10歳の被災少女を支えた震災ホームステイの家主」
(福島県双葉郡→埼玉県)
◇居場所がなかった犬と一緒の避難生活◇
福島県双葉郡に住んでいたWさん(40代、女性)。Wさんは、夫と両親、そして妹家族の7人で、避難所の駐車場で車中生活を続けていました。
車中生活をせざるを得なかったのは理由がありました。Wさん一家は、飼っていた犬をどうしても置きぼりにできず、一緒に避難をしていました。避難所にはたどり着いたものの、周りの人たちのことを考えると建物の中には入れなかったと言います。寒い中、犬を外につないでおけない、避難所の少ない食料を犬にもあげているのではと誤解されたくない…。色々な思いが頭をめぐっていました。
Wさん一家の最大の心配は、一緒に避難をしていた妹の下の娘のことでした。妹の娘は当時10歳。地震、そして放射能と恐怖体験が重なり、精神的に参っていました。その姪を家族でなんとか元気づけながら避難を続けていました。
◇10歳の被災少女を支えた震災ホームステイの家主◇
家を出てからおよそ3週間後、Wさんは、放射能の恐怖から逃れ、一度落ち着ける場所がほしいと、埼玉県で賃貸住宅を借ります。しかし、夫の収入が途絶えたなか、とても家賃を払い続けられる状況ではありませんでした。Wさんが震災ホームステイを知ったのは、その頃でした。
Wさん一家は、「震災ホームステイ」を通じて、4月8日、埼玉県内の一戸建てに入居をします。この家主さんとの出会いがWさん一家にとって希望の光となったそうです。
家を貸したのはSさん。息子夫婦のためにと思って自宅の隣に購入した一戸建てを提供してくれたのです。Sさんは、生活用品も、食べ物も着るものもすべてそろえ、まるで親戚のようにWさん一家を迎えました。さらに、Wさん一家を精神的に支えていこうと、食事会をしてくれたり、Wさんの両親をグランドゴルフに誘ったり、さらには近所の人を紹介して地域の環に招き入れてくれたりしたのです。こうしてWさん一家は地域の人に支えられながら、少しずつ落ち着いた生活を始めることができました。
そして、Wさん一家にとって、とてもありがたかったのが、家主のSさんが、妹の子供を元気づけようと色々と気遣いをしてくれたことでした。Sさんは市内にいる自分の孫を呼んで一緒に遊ばせてくれたり、お祭りに連れ出してくれたりしたのです。その後、妹の子供は、少しずつ元気になり、新しい街で学校にも通えるようになっていきました。
◇1年後の現在 ~なかなか見通しの立たない夫の事業再開~◇
去年11月、Wさん一家は埼玉県の借り上げ住宅に入居し、現在もそこで暮らしています。Wさん一家にとって、いま最大の悩みは夫の仕事のことです。
Wさんの夫は、福島県内でメーカーの代理店を営んでいて、従業員も数名いました。警戒区域になっている元の場所に戻り事業を再開する道はいまのところ開けていませんが、従業員を抱えているため、彼らが次の仕事を見つけられるまでは、店をたたんで自分だけ再就職をするわけにもいきません。
色々と悩んだ末、福島県内でも放射線量の低い、いわき市などで再開できないかと、現在、場所探しなどを始めています。しかし、いわき市はいま、同じように福島に戻りたいと考える人で溢れ、住む場所を見つけるだけでも難しい状況になっています。なんとか戻る場所を作ってほしい、そして事業再開の見通しが立つまで雇用保険を存続してほしい、切実な願いを抱きながら、政府の動向を見守っています。
(情報は2012年2月末現在のものです)
このTさんは、マッチングをしているときにとても印象に残った方のおひとりです。移動されている途中に電話がつながったこともあり、当時のほんとうに緊迫した状況を思い出します。
昨日ご紹介したエピソード#1「10歳の被災少女を支えた震災ホームステイの家主」はいかがでしたでしょうか?
本日は、息子さんの同級生3人を学校に通わせるために引き取り面倒を見たシングルマザーの再出発へ向けての奮闘記です。
息子の同級生3人を引き取ったシングルマザー
(福島県双葉郡浪江町→福島市)
◇衝撃的な出来事の連続だった避難生活◇
地震・津波ともに自宅はほとんど無事だったという福島県浪江町のTさん(30代女性)。Tさんは、震災の翌日から、息子を連れて原発の放射能から逃げ続け、避難所を点々としていました。
逃げる途中、Tさんは衝撃的な光景をたくさん目の当たりにしたといいます。警戒区域になった浪江町の病院では、患者移送のために来た自衛隊が、患者全員の移送は無理だとあきらめ、病人たちを見捨てて行ってしまったこともあったといいます。避難所で朝起きたら、近くで寝ていたおばあさんが死んでいたこともあったといいます。同じ避難所では、「すぐに戻れると思って寝たきりの父を警戒区域においてきた」と泣き叫ぶ女性に出会い、ずっと寄り添ってあげたこともあったそうです。
◇震災ホームステイで福島の家へ ~息子の同級生3人を引き取っての新生活~◇
3月の終わり、Tさん親子が横浜の親戚の家にたどり着いた頃、浪江町にあったTさんの息子の高校が、数十キロ離れた内陸の二本松市で5月に再開されることを知ります。近くに家を見つけて通わせてあげたいと思いましたが、高校の近くのアパートなどはすでに全く空きがない状況でした。
学校の近くにある避難所の体育館に戻るしかないと思っていたとき、Tさんは震災ホームステイを知り、申し込みました。すると幸いにも、学校に通える福島市内の一戸建てを無償で借りられることになったのです。家を提供してくれたのはSさん。元々、Sさんの両親が住んでいた家で、2,3年前にご両親が亡くなり、空き家になっていたものでした。
家が決まり、担任の先生に喜んで連絡をしたTさん。その時、ある事実を知ります。当時、避難先が遠くて学校に戻れない生徒がたくさんいたのです。それを知ったTさんは、同級生たちを預かろうと決意をします。Tさんの元にやってきた同級生は3人。そのときから、息子を入れて高校生4人を相手に、いわば「学生寮のお母さん」のような生活が始まりました。朝4時起きで弁当を作り、息子たちを6時過ぎの電車に乗せる生活が始まったのです。
◇「補償」をもらえたが故の悩み◇
その頃、Tさんは一つ悩みを抱え始めていました。新しく生活を始めた福島市は、原発に近いものの補償対象地域にはなっていません。Tさんの地域の人に対する東電からの補償内容が発表されると、近所の人たちの心情が気がかりで、どうしても遠慮がちな生活をせざるを得なくなったと言います。
出身地域は、避難で乗ってきた車のナンバーでわかります。同じ地域から逃げてきた知人の中には、嫌がらせで車を傷つけられたり、子供が学校でいじめられた人もいたと言います。
◇1年後の現在 ~歩き始めた息子、定住先に悩むTさん~◇
預かっていた息子の同級生は、その後、家族が近くの仮設住宅や借り上げ住宅などに入居できたのをきっかけに、家族の元に戻りました。Tさんの息子はこの春高校を卒業し、千葉のイタリアンレストランで調理師を目指して歩き始めることになりました。
しかし、子供たちが歩き始める中、Tさんは定住先を悩んでいました。雇用保険の支払いが3月末で終わるので、それまでに落ち着いて住む街をきめ、仕事を探さないといけないと思ってはいます。しかし、故郷に戻れるかどうかが分からない今、どこで再出発をしたらいいのか決められない、とTさんは言います。
(情報は2012年2月末現在のものです)
マッチングをしているときは、こんなお仕事をされていたことは知りませんでした。
三つ目のエピソードは、被災地で納棺師として数多くの犠牲者の方々の最後を見送った「おくりびと」Tさんの話です。
震災の「おくりびと」~震災の犠牲者を無償で化粧し続けた納棺師~
(福島県南相馬市→群馬県)
◇震災の「おくりびと」◇
福島県南相馬市で納棺師をしていたTさん(40代男性)。Tさんの葬儀場に、被災者の遺体が運ばれ始めたのは、地震翌日の夕方でした。津波や地震の被災者の遺体はこれまで見たことがないほど傷んでいるものが多くありました。そうした遺体にショックを受けながらも、Tさんは、普段通り、運ばれてくる遺体に化粧をし続けていました。遺族から化粧の費用をとるつもりはなく、完全なボランティアでした。こういう時だからこそ、遺体を元気だったころの姿に少しでも戻してあげて、遺族の気持ちを安らかにしてあげられないか…そうした思いでいっぱいだったといいます。
ある日、Tさんの元に、知人の娘さんの遺体が運ばれてきました。まだ18歳でした。美しいはずの年ごろの娘さんですが、顔は黒ずみ、皮膚もただれた、本当に可愛そうな姿になっていました。Tさんは、知人のために、娘さんの顔にドーランを何度も重ねて塗り続けたそうです。
たくさんの被災者の遺体と向き合ったTさん。今ではこう思うそうです。「人の魂は、その人の体の中ではなく、他人の心の中にあるのではないか。震災で亡くなった人たちの魂も、人の記憶に残っていれば生き続けることができる。いつまでも忘れずにいてあげたい。」
数日後、遺体に化粧をする仕事はひと段落。Tさんは仕事を失いました。
◇7か月の赤ちゃんを放射能から守りたい◇
実はTさんには、震災後、家族の心配が浮上していました。Tさんには、震災時、生後7カ月の赤ちゃんがいました。南相馬市にある自宅では、赤ちゃんへの放射能の影響が心配で、どこか、遠くに避難できる場所がないかと考えていました。
しかし、自宅は避難準備区域だったため、政府からの補償はなく、避難は自費になってしまいます。しかも自宅は建てたばかりの1戸建て。ローンの支払いが続いていました。仕事がない中、家賃の二重払いはとてもできませんでした。Tさんが震災ホームステイを知ったのはその頃でした。
◇見知らぬ土地で孤立する新米ママ◇
震災ホームステイを通じて、Tさんに家を提供してくれたのは東京に住む医師でした。両親がなくなり空家になっていた前橋市の実家を貸してくれたのです。無償で提供してくれた家主さんに感謝でいっぱいだったTさん。しかしそれから、見ず知らずの土地での新生活が始まったのです。
Tさん夫妻は、まずは知り合いを作らなければと、すぐに近所にあいさつ回りをし、地域のお祭りに参加したり、地域の掃除に参加したりと、精力的に繰り出しました。しかし、「被災者」である自分たちに周りの人も遠慮がちで、心の底から相談できる人を見つけるのは苦労したといいます。7カ月の赤ちゃんを抱えた奥さんは、初めての子育てに戸惑うことがいっぱいでしたが、頼れる人もいず、毎晩「故郷に帰りたい」と泣いていました。でも子供への万が一の影響を考えると、戻るわけにもいかない。葛藤が続いていました。
◇1年後の現在 ~間もなく再開される「戻れない我が家」のローン支払い~◇
現在もTさんは、提供してもらった群馬の家に住んでいます。Tさんは、ハローワークで仕事も見つけ、新しい街で何とか再出発をはじめました。
そんなTさんの現在の悩みは、南相馬市に残してきた、建てたばかりの家を一体どうしたらいいのかということです。家のローンは、労働金庫のはからいで1年間は支払いを猶予してもらえましたが、それも間もなく終わり、再び払わないといけない状況になります。戻ろうにも戻れない家のローンです。Tさんは、「家を完全に失っていたら、新しい土地でやっていこうと気持ちの整理がつき、よほどすっきりすると思うこともある」と話します。今のTさんの願いは、叶わないとは思いながらも、家を、東京電力なりに誰かに買い取ってほしいということです。
(情報は2012年2月末現在のものです)
Yさんとの最初のコンタクトは電話でした。「津波で家が全部流れてしまった」というYさんの声は、私にとっては、テレビで見た津波の映像より、さらにずしんとくる衝撃でした。
四つ目のエピソードをご紹介します。住宅提供者のKさん夫妻、そしてインターネットを通じて多くの「サンタクロース」に支えられたYさん。たくさんの人たちの善意に支えられ埼玉県で新生活を送りつつ、故郷の浪江町の復興はもうありえないのでは?と悩む葛藤の日々・・・
エピソード3 インターネットの向こうに大勢の「サンタクロース」が現れた
福島県浪江町→埼玉県
◇津波ですべてを失った一家◇
津波ですべてを失った島県浪江町のYさん(40代女性)。Yさんが助かったのは、たまたま息子が外にいたからだったと言います。地震が起きた時、中学の卒業式を終えたばかりだった息子は、友達とご飯を食べに行っていました。Yさんは、家にいた夫に息子を迎えに行こうと言われ、ペットの犬を連れて車で走り出しました。しばらく走ったとき、道ばたに立っていた役場の人から誘導を受け、気づいたら高台に着いていたそうです。Yさんの家が流されたのは、ちょうどその頃だったと後から知りました。思いもかけない形で命を救われたのです。
その後、幸いにも家族全員の無事を確認できたYさんは、一家で親戚の家を転々としながら、落ち着ける場所を探し続けていました。URの借り上げ住宅なども探しましたが、ペットの犬を連れて入居をできる部屋は見つからなかったと言います。そうしたなか、震災ホームステイのウェブサイトを知り、ようやく落ち着ける場所を見つけたのです。
◇インターネットの向こうに大勢の「サンタクロース」が現れた◇
震災ホームステイでYさんに家を提供したのは、法律関係の仕事をしているKさん夫妻でした。Kさん夫妻は仕事の都合で引っ越しが決まり、賃貸に出す予定だった埼玉県のマンションの一室を無償で提供してくれたのです。
津波ですべてを失ったYさんは、住む家以外にも、インターネットを通じて、見ず知らずの人たちからたくさんの贈り物をもらったといいます。「生活用品がなくて困っている」と支援サイトに書き込みをすると、20数人から提供したいと連絡があり、鍋、食器、衣類、食べ物、裁縫用具、体温計、扇風機など、ありとあらゆるものを送ってもらえたと言います。そうした人たち何人もといまでもやりとりが続いていて、中には「寒くないですか」と手編みのマフラーを送ってくれた人もいました。インターネットが繋いでくれた、見知らぬ人々からの贈り物と気持ちに支えられ、Yさんは何とか新しい生活を始めることができたのです。
そしてYさんにとって何よりも、家を提供してくれたKさん夫妻との出会いは「奇跡」だったと言います。家主のKさん夫妻は、Yさんに事あるごとに連絡をくれ、相談相手になってくれたといいます。それが、Yさんにとっては大きな精神的支えになりました。
◇気になる家主さんの心の内◇
家主さんのご厚意に甘えることになったYさんですが、家主さんのことがずっと気になっていたといいます。「家主さんもはじめは軽い気持ちで貸してくれたのかもしれない。でも、この災害はそう簡単には終わらない。家主さんはそれに付き添う気持ちがあるのか、後悔していないか、とても気になっている。どこまでご厚意に甘えていいのか毎日悩んでいる」とYさんは言います。
そうした中、8月、Yさんは少しでも家主さんの負担を減らせないかと思い、埼玉県に借り上げ住宅として認定をしてもらないかと働きかけました。それが実を結び、家主さんには、その後、埼玉県から「借り上げ住宅」として、わずかですが、家賃が支払われるようになりました。
◇1年後の現在 「浪江町の復興はないのでは…」定住地を悩む毎日◇
Yさんは、「福島県浪江町の復興はもうありえないのでは…」と思い始めていると言います。「除染をしても、住めるのは何十年も先になるかもしれない。ならば除染はしなくていいので、「もう住めません」とはっきりと言って土地を買い上げてほしい。そうしてくれないと、戻れるのか戻れないのか、自宅をどうしたらいいのか、悩みながら生きていく毎日が続いてしまう」そうYさんは訴えます。
(情報は2012年2月現在のものです)
Wさんの声を思い出します。厳しい状況下での電話のやりとりでしたが、なんだかほっとする、あたたかい声でした。まだ「震災ホームステイ」の仕事は続けていかなくてはいけないのかもしれません。
五つ目のエピソードをご紹介します。南相馬市で和牛の繁殖業を営んでいたWさん一家。手塩にかけて育てた牛たちを泣く泣く置き去りにしつつ、東京へ。奥様は助産師の経歴を生かして、被災地から逃れてきた妊婦たちの赤ちゃんをとりあげる日々が続きますが・・・
東京で遥かなる福島の赤ちゃんを!~ある被災助産師の物語~
(福島県南相馬市→東京都)
◇大事に育てた牛の柵に鍵をかけての避難◇
和牛の繁殖業を営んでいたWさん一家。Wさんの家は、警戒区域になり、2度目に原発が爆発した3月14日、車に詰めるだけ荷物を積み、避難をしました。それまで大事に育てていた牛は、およそ40頭。牛たちには、餌をあげられるだけあげ、周りの迷惑にならないよう、泣く泣く柵に鍵をかけて出てきたといいます。
一度は東京で賃貸住宅を借りたWさん。しかし収入が途絶えた中で、家賃を払い続けることができるのかどうか、不安でいっぱいでした。そうしたとき、震災ホームステイを知り、「すがる思い」で申し込みをしたといいます。
◇慣れない東京での新生活に悩む夫◇
Wさんに家を提供したのはKさん。転勤で住まなくなった家を無償で提供したといいます。Wさん夫妻は、Kさんに感謝をしつつ、東京で新生活を始める決意をします。
それから、Wさん(40代女性)の夫の仕事探しが始まりました。Wさんの夫は和牛の繁殖業。東京で必死に仕事を探しましたが、畜産業しかしたことがない夫が仕事を見つけるのは、とても難しい状況でした。福島にいた時は、夫の仕事場にある事務所には、毎日近所の人が次々に顔を出していました。しかし、東京で自分の居場所をなかなか見つけられなかった夫は、自分を失ってしまったかのようだったと言います。
そうしたなか、夫は5月、南相馬市の警戒区域外にいるいとこから「少しの間仕事を手伝ってほしい」と声をかけてもらい、故郷に戻りました。
◇東京で遥かなる福島の赤ちゃんを!~ある被災助産師の物語~◇
一方、助産師だったWさんは、助産師会の助けもあり、雇ってくれる東京の助産所を見つけました。Wさんに紹介をされた助産所は、ちょうどその頃、「安心できる街で赤ちゃんを産みたい」と願う福島の妊婦たちを受け入れている施設でした。不思議なご縁を感じながら働き始めたWさん。Wさんの元には、福島からたびたび妊婦が出産にやってきます。Wさんは故郷の復興を願いながら、福島の妊婦の赤ちゃんをとりあげています。そして母と子が無事に育っていくのを世話をしながら見届けているのです。
◇1年後の現在 休職期間が終わりを迎え決断のとき◇
実は、Wさんが元々助産師として務めていた福島の病院は、震災後1年間、Wさんを休職扱いにしてくれています。その休職期限も、今年3月で終わりです。家は警戒区域で戻れませんが、今、職場に復帰しないと職を失うことになります。Wさんは悩んだ末、高校2年生の息子を連れて故郷に戻る決意をしました。
しかし、今年に入りすぐに申し込んだ仮設住宅は、空きがないのか、まだ返事はありません。3月いっぱいと言われている借り上げ住宅の申し込みを、駆け込みで行いましたが、その返事もまだ来ていません。帰れる場所がまだ見つからない中、休職終了の期限が間もなく迫ろうとしています。
(情報は2012年2月末現在のものです)
Hさんとは、電話やメールでほんとうに何回もやりとりをしました。小さなお子さんたちを連れて、どんなにたいへんな1年だっただろうと思います。最近のメールで、とても強くなられたなぁと感じました。彼女の言うとおり、人間は人とつながっているから生きていられるのだと私も再認識しました。
六つ目のエピソードをご紹介します。放射能から二人の幼子を守りたい一心で夫と離れて母子だけで避難したHさん。ひと気の無い別荘地の寂しさに耐えられず行き先を二転三転する中で、「人間は人とのつながりを感じていないと生きていけない」と痛感。いまは、被災地から避難してきた他の母子たちと新潟県中郡の街で新たな一歩を踏み出しつつあります。
赤ちゃん2人を守る決意をした、ある母の孤独な戦い
(福島県郡山市→栃木県→群馬県→新潟県)
◇赤ちゃん2人を守る決意をした母◇
福島県郡山市に住むHさん(40代、女性)。生後5か月と2歳の2人の赤ちゃんがいたHさんは、放射能から子供たちを守ろうと、地震から4日後、子供たちを車に乗せて家を出ました。夫は仕事の都合で家を離れることができませんでした。子供たちを守れるのは自分しかいないと、母子だけの避難を決めたのです。
Hさんが最初に向かったのは、神奈川県のお姉さんの家でした。快く受け入れてくれたお姉さん。しかし、当時、お姉さんの家は計画停電で度々電気が止まり、お姉さんも自分の赤ちゃんの世話で大変な毎日を送っていました。日に日に疲れた顔になっていくお姉さんを見て、Hさんは「申し訳なくてここにはいられない」と思ったそうです。しかし、警戒区域外に住むHさんたちは当時、自治体に相談をしても、入居資格がないと言われてしまったそうです。Hさんがテレビで震災ホームステイを知ったのはその頃でした。
◇人気の無い別荘地での孤独との戦い◇
震災ホームステイに連絡をしたHさんは、幸いにもすぐに、福島との県境に近い、栃木県のある別荘を紹介してもらいます。Hさんは、すがるような思いで4月23日、その家に向かいました。迎えてくれたのは、普段は千葉県に住んでいる家主のYさんご夫妻でし た。ご夫妻は、家を案内した後、食事をふるまい、一晩一緒に過ごして Hさんを温かくもてなしてくれたといいます。Hさんは、世の中にこんないい人がいるのかと感動し「落ち着ける場所が見つかった」と思ったといいます。しかし、大変なのはそれからでした。
翌日、家主さんご夫婦が帰った後、突如静けさが襲いました。この時期の別荘地は人の気配が全くなく、時折聞こえるのは、被災地に向かうヘリコプターの音だけでした。そして、ひっきりなしに起こる余震…。スーパーに行くのでさえ、車で40-50分かかります。人ひとりいないこの場所で、自分が2人の赤ちゃんを守って生きていかなければならない…。そう思うと、不安でたまらなくなったと言います。Hさんは、近くの保育園などにも連絡をし、上の子だけでも受け入れてもらえないか、助けてもらえないかとお願いをしたそうです。しかしそれもかなわなかったと言います。「子どもを守るため」と自分に言い聞かせ、必死に孤独と戦ったHさん。しかし1週間後、そっと家から姿を消したのです。
Hさんはおよそ10日後、再び震災ホームステイに「住む場所をもう一度探してほしい」と連絡をしてきました。そして、入居者も多く管理人もいる東京都のCさんに提供いただいた群馬県のマンションに落ち着いたのです。
◇1年後の現在 ようやく見つけた「人との絆」◇
Hさんは現在、新潟県中部の街の借り上げ住宅に住んでいます。Hさんが住み始めた地域は、福島県と行き来がしやすいため、母子だけで避難をしてきた被災者が多く集まっていました。NPOが作ってくれた被災者たちの交流所でHさんは同じ境遇の母子避難者たちに出会い、毎日のように連絡を取り合い、支え合って生活をしているといいます。Hさんはいま、栃木の別荘地での生活を振り返ってこう話します。「人間は人とのつながりを感じていないと生きていけない、社会的な生き物なのだ、と痛感した」。
◇「地域住民の環に入れてほしい」歩き出した被災者たち◇
震災後1年が経とうとする今、Hさんたちママ友仲間は、次への一歩を踏み出そうとしていました。
Hさんたちは被災者の仲間と助け合って暮らしていますが、これまで、地元住民との交流はなかなか持てなかったといいます。それは、「これまで被災者は支援を受けている立場として、謙虚にひっそりと生きてきた」(Hさん)からでした。
そうしたなか、被災者のママ友たちはこの3月、地元の人が集まるカフェのギャラリーで自分たちが作った作品の展示会を開きました。「私たちもこの地域にいる。仲間に入れてほしい」そうしたメッセージが込められていました。さらに福祉施設や道路の掃除などをかって出るなど、地域に貢献できる方法について模索を始めているそうです。
(情報は2012年3月6日現在のものです)
この連載も今日で七つ目になります。元学習塾経営者のWさん、人工透析が必要な母親、家族とその友人たち13名の大所帯を引き連れて千葉で再出発を果たしつつ、故郷の福島の復興のために住民の手による街の除染作業を進めるべく動き出しています。
故郷の復興に人生を捧げる ~街の除染に向けて動き出した元学習塾経営者~
(福島県双葉郡富岡町→千葉県→福島市)
◇83歳の両親を連れた避難◇
福島県双葉郡富岡町で学習塾を経営していたWさん(60代男性)。Wさんは地震の直後、83歳の両親を連れて高台の避難所に避難をしました。家は津波からは免れましたが、翌朝、避難所に「原発から離れるように」と指示が出てさらに遠くへ避難を始めます。警戒区域になった家にはそれ以来戻れなくなったといいます。
避難所を転々とするなか、Wさんが一番気がかりだったのが、母親のことでした。母親には病気があり、2日に1回病院で透析をしなければ、命にかかわる状態でした。それまで通っていた病院は警戒区域で立ち入り禁止となり、ほかに受け入れてくれる病院を必死に探しましたが、ベッド数が足りないと断られ続けました。福島県内ではもう無理、そう思ったWさんは、妻の実家のある千葉県で病院を見つけ、3月13日、移動をします。そして翌日、母親はなんとか透析をしてもらうことができました。
◇賑やかだった20人の共同生活◇
それからWさんたちは、妻の実家での生活を始めます。実はWさんたちは、福島の避難所で落ち合った長男や長女の家族、その友達などで助け合って生きていこうと決めており、13人で一緒に千葉に移動をしていました。妻の実家は快く迎えてくれたものの、元々7人いた家族に13人が加わり、20人の大所帯の生活が始まることになりました。一緒に避難してきた中には、今年幼稚園を卒園するはずだった子もいました。その子のために、20人で手作りの卒園式をやったりとみんなで賑やかな毎日でした。
しかし生活面は大変でした。洗面所やトイレは1か所。20人ではとても足りませんでした。妻の実家には、もともと中学生と高校生の子供が住んでおり、普段と変わらず学校に通っていました。朝、洗面所の順番を待っていると学校に遅れてしまいます。Wさんは、「長くお世話にはなれない」と思ったといいます。
◇病気の母が繋いだ「縁」◇
Wさんは、母が病院に通える範囲で早く住む場所を見つけなくては…と思い、URの借り上げなどを必死に探したと言います。しかし借り上げになっているのは基本的には空き家。古い建物が多く、エレベーターがなかったり、廊下の幅が狭かったりと、母が車いすで移動できる家はなかなか見つかりませんでした。
困り果てていた時にWさんが知ったのが「震災ホームステイ」でした。連絡をすると、すぐに千葉県内の一戸建ての家が見つかり、5月1日、入居することができたのです。車を玄関前に横付けでき、母が移動をするのに非常に便利な家でした。実はこの家が、高齢の母に都合がよくできていたのは理由がありました。提供された家には元々、高齢の女性が1人で住んでいたのです。ちょうど1カ月ほど前に施設に入ったため、空いたところを娘さんが提供したものでした。家には、高齢の女性が使っていたという身の回りの物がそのまま残っていました。娘さんは、それらをそのまま使っていいと言ってくれたといいます。
娘さんの厚意に感動したWさん。このご縁は、病気の自分の母親が繋いでくれたご縁だったのではないかと思ったといいます。地震後、Wさんは「母を何とかしなければ」と思って行動をしてきました。その結果、原発が爆発した時には、Wさんたちはすでに福島から離れていました。千葉の妻の実家では楽しい一時を送ることができました。そして、震災ホームステイの大家さんとの出会いもありました。実はWさんの母は、病気を抱えていただけでなく、地震後、避難所を転々とするたびに、痴呆が進みコミュニケーションをとるのが難しくなっていました。しかしWさんは言います。「母は実はボケているのではなく、子どもである僕たちを守るために、すべて計算してやってくれたんじゃないか、と不思議に感じることがある」。
◇1年後の現在 故郷の復興に人生を捧げる◇
現在Wさんは、父親と一緒に福島市に仮設住宅を借り、月に10日位そこで生活を始めています。理由は、残りの人生を故郷の復興にささげる決意をしたからだといいます。故郷の復興のために、できることから始めたい。まずは自分たち住民の手で除染作業ができないか、役所と調整を進めているそうです。
(情報は2012年3月4日現在のものです)
先日のエピソードでご紹介した福島出身の助産師Wさんが東京新聞の取材を受けて記事(3/26夕刊およびWeb版)になりました。私も取材に同席させていただきましたが、Wさん(渡部さん)のほか、福島郡山から都内まで出産に来ていた影山さん、助産院の責任者山村さんからも直接お話しを伺うことができました。
被災地は復興に向けて少しづつ歩み始めていますが、除染と住まい、雇用や教育、そして今回目の当たりにした妊婦の出産や育児など、様々な問題を抱えていることを実感しました。